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まどか☆マギカ最終回感想 〜もやもやした気持ちの原因は何か?

謎の白い液体でもちきりのまどマギ最終回放送ですが、非常に良くまとまっているのにどこか消化不良を感じます。なんだろうこのモヤモヤの正体は。

11話と12話のおさらい

11話では、ほむらの行為がまどかの魔力を強めたと推察され、過去の地球とインキュベーターの関わりが説明され、ほむらからまどかに「ほむらの願い」が説明され、ワルプルギスの夜の前に破れ絶望しかけたほむらと、最後の決断をしたまどかの姿。
12話にて、まどかは膨大な力により「宇宙の理(ことわり)」が書き換えられ、ソウルジェムが魔女化する前に「まどかが浄化する」ことで魔法少女を絶望させないという願いが叶えられ、その代償にまどか自身が個を保てなくなりまどかの存在は時間超越者たるほむらによって唯一記憶に留められ、まどかは世界のどこにでもいるけど誰も認知できない存在となった。

※全体の流れを詳しく理解したい人は「まどか☆マギカ考察(3) まどかはなぜ魔法少女になったのか?」を読んでください。

まどか☆マギカに期待してたもの

まどかは9話までに次々と魔法少女仲間を失い、QBに騙されていたことを知りながらも、何も出来ない自分自身と葛藤します。そして、QBとまどかの契約を沮止するため割って入るほむらという存在や家族(ママ)の存在を混沌と抱えながらもまどかの悩みは深まり、出来事はより深刻さを増して行きます。

この葛藤と11話でのQBからの過去の説明、そして絶望的な状況でのほむらの告白がきっかけとなり、まどかは自分の願いを決めます。それが12話冒頭での次の台詞です。

「わたし、やっと分かったの。叶えたい願い事を見つけたの」

まどマギは「まどかの物語」として観るか「ほむらの物語」として観るかで相当に感想が異なるとは思いますが、基本的には「まどかの成長物語」であって、「漠然と魔法少女に憧れる一人の少女が明確な意思を持って魔法少女になる」物語になっています。これが作品全体を貫く物語構造にほかなりません。

視聴者の多く(たぶん?)は、まどかが決断した結末とそれによる物語への決着を期待していました。もっと言えば、理不尽な目に遭わされ続けた魔法少女5人への救いを求めました。*1

まどか☆マギカが紡ぎ出した物

しかしながら、まどかの成長の証である決断はまどかの存在を消し去ってしまいました。世界と同化し世界のルールのひとつとなったまどかは「世界のどこにでも居る存在であり、かつ、どこにも居ない存在」となってしまいました。

物語の構造上ほむらが、そして視聴者が最も救いを望んだのはまどかなのに、まどかだけは救われないという結末になっています

救われないだけならまだ悲劇として成立したのですが。

まどかの想いが見えなかった

「今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女をわたしは泣かせたくない。最後まで笑顔で居てほしい」

このまどかの想いの裏にあるものは、決断の裏にある気持ちはなんだったのか? その一番大切なところが語られていません。この考えに至る原因は11話までに十分に語られています。その結果である願いも12話でまどか自身が語っています。でも、色々な出来事から結論を導くまでの過程が見えてこない

まどかは第1話の時から、自己犠牲的で、嘘もつかず、まわりの人間の幸せをまっすぐに願う少女でした。どうしてまどかはここまで自己犠牲的で素直になったのでしょうか。そんな少女が「魔法少女から魔女」という解決できない事実を突きつけられ何を感じたのでしょうか。どう悩んだのでしょうか。

まどかの感情の移行に途中経過がなく「すべてを一人で抱え込んでしまった」ため結論への飛躍がありすぎ、視聴者を置いていってしまったのです。観てる人はまどかの物語でありながらまどかに感情移入できなかった。だから、理論的に納得のできる綺麗な物語構成であり大団円を迎えながらも感情の整理がつかなくなった。


全編を通してまどかは自身の弱いところを全然見せませんでした。他人に対して強く優しいまどかは、その反対の気持である他人を妬み弱む姿を(視聴者に)見せなかった。まどかの感情は常に正義でありすぎたのです。

ほむらやみんなの想いは・・・?

まどかの決断への礎として、またそれを支える引き立たせる「最高の友達」であるほむらは、まどかだけでなく、さやかや杏子、マミと関わることでその想いが次々と描かれていきます。他者と対立し、ときにすごみ、時に取引する。なりふり構わないほむらの行動、その節々で見える感情の断片、そして10話でのほむらの状況説明。

ほむらは非常に良く感情が描かれています*2。しかも、最終話後半ほむらの視点で物語が進み、まどかの想いはほむらによって受け継がれ、まどかの存在は失われてしまったわけですが、それでもまどかのことを記憶しているほむらには救いがあります。

マミはともかく、杏子もさやかも同じように想いが描かれています。ママもです。その人物の弱さ(弱音)が描かれているというのが重要だったのです。

まとめ

以上、もやもやの原因はまどかの感情が描かれなかったためだと感じました。

弱音を吐かないまどか、他人を頼らないまどか、他人に何かを求めないまどか、他人の幸せを願うまどか。そんなまどかだからこそ選択された「超越した思考」による願いなのかも知れませんが、それがために理解はされなかったし、まどかの性格からして(気持ちまで)理解されることを望んでも居なかったというのも皮肉なものです。

まどかは少しばかり優しすぎたのかもしれませんね。

*1:厳密には救済されないことでも構わないけど何らかの結末

*2:感情はモノローグでなくエピドードによってのみ語るべきものです。その意味でほむらの感情を語るエピソードは全編にわたって描写されています。それが物語の伏線でもあるので当然といえば当然ではありますが。

アニメ感想 神のみぞ知るセカイ(第1期)は明らかに演出の失敗

原作を読んだことがあり、アニメ化という時点で嫌な予感しかしなかったんですが、アニメをみてやっぱり「これはひどい」という感想。予想通りの期待外れ。

がんばって作ってるのは分かるし、アニメだけ取り出せば面白いのかしれないけど、原作の面白さがそこに出ているかというと甚だ疑問。

漫画「神のみぞ知る世界」の面白さってのは、そんなゲームの中みたいな出来事が現実に起こったらギャグだよという大前提があって、その上で「あたかもゲームにありがちなエピソードが(物語上の)現実として起こることの面白さ」にあるのです。

アニメ版の演出は、リアル(現実)をアニメ中の空想世界として描いていてリアリズムをはなから排除している。演出の方向性が180度間違っている。「神のみぞ知るセカイ」は、バーチャルであるゲーム世界に対してリアルである現実の対比を際だたせ、現実でゲームのようなことが起こる面白さがその核であるのに、リアルと言っているのは桂馬の台詞だけで画面はちっともリアルじゃない。第一あのオープニング。どこをどうみてもリアリズムを演出しようという欠片も感じられない。

リアリズムが無視されてるから、お金もちお嬢様は「よくあるお金持ち設定」にしか見えないし、アイドル少女の中川かのんも「アイドル設定の人物」にしか見えない。だから「そんな金持ち現実に居るかよ!」という驚きもないし、「アイドルなのに相手にしない桂馬」という面白さも生まれない。

その中川かのんの回は特に酷くて、EDまで歌をとっておいて、即エンドロールでそのまま終わればいいのに、1コーラス以上も永遠歌シーンで引っ張る。もう頭おかしいんじゃないかと。無理矢理歌なんて聞かせなくても、話の内容がすばらしければ歌は売れるのにそれが分かってないんじゃないだろうかとすら思えてしまう。


ラブひなという漫画があって、それはエロゲのようなエピソードをそのまま漫画にしたことが画期的でした。まるでゲームのような漫画だったわけ。そのアニメにリアリズムは求められなかった。それに対して神のみぞ知るセカイは、当時のハーレムから時代が進みシナリオ重視となったエロゲが背景にある。でも単に一人一人のヒロインを攻略する物語ならゲームをそのままアニメ化すればいいだけの話神のみぞ知るセカイをアニメ化する必要はない。神のみぞ知るセカイ神のみぞ知るセカイたる所以は「ゲームのような少女が実在したら」というところにあるわけ。だからリアルがリアルとして演出されないと成り立たない。


そりゃたしかに、観ていてアニメでリアルを演出することの難しさを感じたりはしましたが、挑戦もせずに最初から普通の何の変哲もない学園アニメとして演出した判断は、原作に愛着がないか、原作の面白さがよく分かってない人間の犯行だろうと思わずには居られませんでした。

第2期やるそうですが、改善は期待できないだろうなあ・・・。

嫌いになるだけ損するような

そりゃ人間だから好き嫌いはあるだろうけど、誰かを心底嫌いになっても自分が辛いだけ損なんじゃないのかなあ。

気持ちの問題だから難しいところはあるのは承知してるけど、もし嫌いにならず、興味持たないとか関わらないとか関係ない人とか、かわいそうな人でもいいけど、別の形に変えられるならその方が楽な気がする。

見るたび、会うたび、考えるたびに嫌になるわけでしょう。だって嫌いになれば嫌いになっただけその気持が強くなるわけでしょう。それって明らかに損してない。

別に好きになれとは言わないけど、あの人にはあの人なりの考えがあって考え方が違うんだなでいいんじゃないかと。その考え方は相容れないけどって、よくそんな風に考えます。


嫌いになった人を違う形に変えるのは難しいのは事実でも、嫌い度20を、わざわざ25や30に増やす必要性はない気がします。それに、20を19にするならそこまで難しくない気がするんだ。

・・・理想論だけどねwww

差別しないとは区別しないということ

メンヘラって単語は好きじゃないど、通称語としてメンヘラってのはある程度一般的になってる。自ら名乗ってる人もいるし。似たようなものでお薬やってますって言ってる人も居る。

こういう人と出会ったとき、交流するとき何か気をつけてたりするんだろうか。うかつに傷つけるようなことを言わないようにしようとか? 衝動的な発言をしてたらなぐさめようとか?

私は考えが甘いなと感じる部分があれば容赦なくツッコむし、考えが偏ってるなと思えばそれを指摘する。

メンヘラの人にそんなことするなんてと言われるかも知れないけど、逆に聞きたい。そんなことで区別する必要あんの?


死にそうな声でグチのような悩み話をされたときだって、さすがに直接の否定こそ避けはしても平然と突っ込む。とりあえず慰めるとかってどうなんだろう。*1

価値観の押しつけと言わればそれまでだけども、「この人は○○な人」なんて区別されてくないし、○○な人だからって風に考えて接されるのなんかみんな嫌だと思う。

「○○な人」なんて区別されて喜ぶのはその状況に甘えて恩恵をうけてる人ぐらいだから


そういえば「○○な人」をフォローしているつもりが、「○○な人」が自分たちとは違う存在だという意識がおもいっきり全面に出てて、それこそ差別丸出しなんてのをまま見かける。結局、そこを区別しないという意識の持ち方が差別しないってことなんじゃないの?

*1:相談する相手がそれしか求めてなかったら、そもそも話を聞くきなんてない。

友情と恋愛と共依存

友情クレクレって言ったて誰も相手にしないよなあ。普段から周囲に対しどのように接しているか、人はそこを見てるんだと思う。多分恋愛も一緒なんだろう。

他人に対して一人前になってほしいと思う反面、本当にそうなったらなったで寂しいって思う人は多そう。

そこで「寂しいから一人前にならないで」と思うと、そこから恐怖の共依存がはじまる。


共依存の何がおそろしいって麻薬と一緒で抜け出せないからだ。

「このままではいけない」という気持ちがありながら、「一緒に居ることによる心地よさ」から抜け出せない。傷の舐め合いから抜け出せない。傷をなめ合っている限りそこに本当の友情や愛情なんてあるわけがない。

人は一人では生きていけないけども「他人と関わる」ことと「他人に寄りかかる」ことは違う。

片方が寄りかかっても、片方が自立していれば破綻するか相手も自立の道を進むかのどちらかしかないけども、両方が寄りかかっていると互いが互いの自立を阻害する。共依存の恐怖はここにある。それでいて共依存独特の傷の舐め合いによる心地よさが麻薬的な喜びとなり断絶の決断を拒む。にも関わらず、共依存という未自立の人間同士が触れあいことによる解決不能な衝突があり心の平和は訪れない。

やるべきことがあるときは、何もしてはいけない

しなくちゃならないことがある。やりたいことがある。でもやる気が起きずにずるずると時間だけが過ぎていく。まるで夏休みの宿題状態の時なんだけども、こんなときの対処策で「あえて何もしない」ってのがある。

本当にやると気力が上昇するまで、まったく何もしないんだ。ゲームとか全然違う好きなことをしてるといい。

本当に一切手を付けずに放置するとやがてプレッシャーに潰されそうになる。ヤバイヤバイと感じるようになる。そうやって気持ちが臨界点を越えたある時、ものすごい勢いと情熱で取り組むことができるようになる。*1

すごく簡単なことなんだけど、1つだけ絶対してはいけないことがある。それは中途半端のノートを開いたり、Wordを起動したり、作文なら1行どころう1文字も手を付けてはいけない。それは「なんだ私頑少しずつ張ってるじゃん」ってガス抜き自己肯定行為でしかないからだ。


原理はすごく簡単で、ように自分持つ責任感に対してトリガーを引くために追い込んでるだけ。やりたいことが大切なことならきちんと達成できる。


ただひとつ難点があって、その臨界点がいつどのようにやってくるか分からない。それどころか、ほんとうに来るのかどうかも分からない。だから、ものすごい不安に苛まれることがある。でもそこで安易に逃げると結局何もできない。

多分〆切に追われる漫画家と同じ気分なんだろうなあ・・・w

*1:もしそうならないなら、あなたのやりたいことってのは所詮その程度のモノってことだ。

行動は嘘つかない

嘘をつく人はたくさん居るけど、行動で嘘をつく人はほとんど居ない。

誕生日おめでとうと言える人は多いけども、本当に誕生日プレゼントを用意する人は少ない。

「今度遊びに行こうね」というのはよくある社交辞令だけども、社交辞令で本当に遊びに行く人は居ない。

だから相手の本心を知りたかったら行動を観察すればいい。

逆に「行動」という絶対指針がある状況でおべんちゃらなんて言うもんじゃない。

「いやーそれ私も興味あったんですよー」

一時はごまかせるけども、それが行動に結び付かなければすぐに嘘だとバレてしまう。

そういうおべんちゃらは逆に相手を傷つけるって分からない人が、困ったことに世の中には一定数居る。


余談だけど、たまーに行動まで交えて嘘を付けるプロの人が居る。ここまで来るともはや嘘かどうかもわからないし、「そこまでやってくれるなら」とすら思えるので気は悪くなかったりするので不思議。