みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

アニメ「響け!ユーフォニアム」の感想(むしろ違和感)

良くも悪くも京都アニメーションだし、良くも悪くも「花田十輝」大先生だった。

吹奏楽部モノで全国目指す話って言われたら、そりゃ青春群像劇を期待するじゃないですか。それにしてはストーリーが雑だし、人物やエピソードが薄っぺらい。

やる気のない吹奏楽部へちょっと力のある先生がやってきました。先生のおかげで、少し乗せられて本気になって、コンクールに取り組んでみました。そうしたら府大会をなんとか突破できました。

あれ? 自分たちで何も解決してなくない?

要するに「スーパーな先生がやってきて勝手に救われてしまった吹奏楽部員たち」の物語なんで、メインのストーリーが陳腐なんです。先生と感情的交流があったわけでもない。主人公たちの過去のエピソードも掘り下げが甘くて、ストーリーラインに必要なので取ってつけた感すらしてしまう。

少し具体的に。後半の山場ともいうべき、麗奈と中世古がトランペットソロパートをかけて再オーデションをするお話。中世古さんはなんでそんなにソロパートやりたかったの? 麗奈だってどうしてそんなにソロパートやりたかったの? ってよくよく考えると本人たちほとんど何も語ってないんです。周りが説明するだけですが、それも「こういう状況ならこう思うよねきっと」ってだけ。キャラが生きてない。

再オーデションだって、部員たち結局選んでないじゃん。部員たちの気持ちを察して先生が選んだだけじゃん。流れに身を任せてただけじゃん。最初の「なんとなく流れで全国大会出場」を目標にした時から何も成長してないじゃん

誰だかわからない状態で演奏だけ聞いて選ばせるとか、演奏の差を見せつけて拍手のシーンは無くして中世古に辞退させる流れをもっと丁寧に描くとか(そのためには中世古の気持ちをもっと描写する必要あり)、いくらでもやりようはあったと思うんですけどね・・・。

久美子の成長物語としてみても、滝先生と麗奈によって成長させられたのであって、自ら成長したわけではない。8話でお祭りに麗奈を誘ったのだって偶然であってそれ以上ではない。中の登場人物が、自ら獲得したものが本当に希薄なのです。

もう一つ難しかったところは、声ではなく楽器を演奏となると(よっぽど音響や作画に注意しないと)リアリティが薄くなってしまうんですよね。録音した演奏が流れるわけですから、その人物が演奏した感じがしないんです。

優れた青春群像劇のSHIROBAKOや、優れた成長物語のラブライブとかとも思い出したんですが、そんなに話題にならなかったP.A.WORKSの2012年制作「TARI TARI」っていう合唱部を舞台とした作品を一番連想しました。TARI TARIは別にコンクールを目指すお話ではないですけども、その中の人物たちはちゃんと葛藤していましたし成長もしてました。

まとめ

青春群像劇ではなくて「けいおん!」や「ハルヒ」とかの京アニキャラアニメ、無限ループ日常アニメの延長でみると結構すんなり腑に落ちます。キャラを立たせるための吹奏楽部(舞台装置)で、そのキャラを魅力的に見せるための物語って考えると、本当によくできてる。それには、背景のある人物像や芯のある心理劇は余計なんですね。

青春モノとしてみるなら、元ネタのテレビ番組「笑ってこらえて 吹奏楽部の旅」のほうがよっぽど面白いかも。

吹奏楽ってもっと良いお話が作れる題材だと思うんだけどなあと勿体無く感じてしまいましたが、ユーフォニアムキャラアニメなので、ニーズ(私の期待)が間違ってたと反省してるところです。

追加

とはいっても腑に落ちないので、色々検索してみたら「『響け!ユーフォニアム』アニメが描いていたものを原作小説から読み解く」という記事がとても参考になりました。

原作ではあまり重点的には描かれなかった「久美子の成長」を、アニメ版では軸にして描くために「最初はユーフォを辞めさせようとして」「最終的にユーフォが好きだと言わせる」までの過程に再構成した

思えば、『響け!ユーフォニアム』という作品は、この「周りの空気に流されること」と「それに反発すること」を描いていた作品だった

原作にあった「多面性」というか「深み」を削ってでも、アニメ版は分かりやすい王道エンタメ「成長物語」な青春作品に徹したと言えるのかも知れません。

アニメ全体から漂ったちぐはぐ感の原因はそれか!

つまりエピソードや登場人物の性格が成長物語として的外れなのは「周りの空気に流されること」と「それに反発すること」をテーマとした原作に引きずられているからなのですね。

言葉ではなく、映像で久美子の成長を伝えようという気概は分かるんです。映像で登場人物の心理を説明していたこともすごくよく分かるんです。分かるんですが、その映像が表現している久美子の成長(や人物像)自体がすでに述べたとおり陳腐なのです。

成長物語である以上は自ら獲得して成長しなきゃいけないのに、実際には成長とは名ばかりの「受動的に得たもの」しか描かれていないから陳腐なのです。どうして受動的な成長しか獲得できなかったのか、それは原作が「周りの空気に流されること」(受動的であること)自体を物語の主題としているから。

本当に成長物語に再構成したかったなら、もっと徹底的に改変して微に入り細に入り隙なく物語と人物を再構成しなきゃダメでしょう。そこを映像表現で押し切ったってしょうがない。受動的な人物である限り成長物語にはならない。

といったことは当然作ってる側は気づいてたはずで、結局は「キャラアニメの枠」は外したくなかったんだろうなあ、脱皮する気はないんだろうなあ、第2のけいおん!を作りたかったんだろうなあという感想に行き着くのでした。



言い忘れてた。主役の久美子のの声(黒沢ともよさん)が小西寛子さんの声に似てる!

追記(コメントへの返信代わりに)

「自分たちで何も解決していない」、とあるが、練習頑張っていたではないか。それ以外に何を描写すればいいのか。中瀬古香織と麗奈がなぜソロパートをやりたかったかわからないならば、残念ながらこのアニメは楽しめない。何かに本気になったことがないならば、彼女らの気持ちはわからない。

(中略)しかしこのような読解力のない、見当違いの意見を見ると悲しくなるな。

私から見れば、あなたこそ名前も名乗る自信もないような見当違い君なのですが。

この作品を心底楽しめるのは「私たち練習頑張ったんですよ(テヘペロ)」みたいな適当描写から、勝手に「すげー頑張ったんだ、えらいぞ」みたいな親視点なのか分かりませんが、そういう脳内補完ができる人だけです。同様に「練習してるシーンを映せば頑張ったと伝わる」という思考は表現として下の下です。まわりがそう語ってるから、きっと彼女はこういう感情を抱いているに違いないと観客に投げっぱなしにするのは表現として下の下です。

感情や想いはエピソードで語るべきです。断片的なシーンや情報では語ったことになりません。感情を表現すべき適切なエピソードを配置して、それに絡めてうまく映像表現すべきです。本作ではそれがまるでできていません。その理由は、主題を変えたにもかかわらず原作のエピソードをほぼそのまま使用しているからです。

例えばソロパートオーディションでの中世古は、麗奈を描くための道具としての最低限の描写しかされておらず、結果としてリアリティが欠如しています。中世古がソロにこだわる断片情報はでてきますが、深みもなく、エピソードもないので、リアリティがありません。

あなたはその部分を断片情報から勝手に補完しているようですが、それはただの妄想に過ぎません。その「妄想を観客に強要する作品」は表現として下の下です。登場人物全般に対し、容姿や声や断片情報から「脳内補完による共感を一方的に期待する作品」は表現として下の下です。

逆に言えば、この作品はキャラクター(登場人物)に対する(妄想を引き起こすような)過剰な感情移入を前提に作られており、そのためのキャラクター描写に重きが置かれています。「お前ら、こいういうの好きだろ!」とでも言わんばかりに。普通、感情移入というのは、エピソードと描写の積み重ねで生み出すものなのですが、この作品はそれを半ば放棄しています。

だから違和感がある(違和感だらけだ)と言っているのですが。

しかしながら、アニメに限らずTV局絡みの邦画とかそんなのが溢れているし、世の中概ねそんなものなのかも知れません。描写を積み重ねなくても観る側が勝手に共感してくれるなら、それほど効率的なことはありません。残念ながら。