相手のためという幻想
友人のために、恋人のためにプレゼントをあげてみよう。どんなプレゼントがいいだろう。
プレゼントをあげるとき「定番で無難なプレゼントはなんだろう」「高いものなら良いだろう」「これぐらいのものをあげたら、お返しにコレぐらいのものがもらえそうだ」とか考えていませんか。
どんなプレゼントなら相手が喜んでくれるか、相手は何が好きなのかとそういう思考がガラっと抜け落ちている人はいないでしょうか。プレゼントの本質は相手を喜ばせることなのですから。相手が好きなものを一生懸命考え、相手のためにプレゼントを選ぶ。本当に大切なことだと思います。
でも、それは本当に相手のため?
私は以前に「あなたのことを心配しています」と人づてに言われたことがあります。本当に心配ならなぜ直接言わないんだと思いましたし、そのせいでその言葉が偽善に感じてしまい酷く傷つきました。
偽善と相手のための思いやり、この境界はどこにあるのでしょうか。何を持ってこの2つを分けることができるのでしょうか。
これについて本当に長いこと悩みました。10年ぐらいずっと不思議でした。自分自身の行動を振り返り、はたしてこれは真の思いやりなのだろうか。それとも単なる自己満足の偽善なのだろうかと悩みました。私は、それが本当に相手のためだと思えるのなら喜んで嫌われ役を買って、そして後から堪えきれないほど後悔する妙な性分があります。そんなとき拭いきれない疑念が、この行動は単なる偽善ではないのだろうかということです。
誰かに喜んでもらおうと行動することも多いのですが、これも偽善じゃないのかとよく考えました。それでも結構な割合で喜んでもらっていると感じています。偽善だとしたら本当に喜んでもらえるのだろうか。それにすべてが偽善だとしたら、相手のためということは存在しなくならないだろうか。
結論はすでに出ています。真に相手のための行動とは、まったく意識せず相手のためになった行為。もうひとつは、「これは相手のためだと自己満足する行為」だと認識し、その上でなお相手のために行動したときだけです。別の言い方をすれば、自分が純粋にそうしたいから、好きだからするというただそれだけの理由で行う行為です。見返りを求めない行為です。
別にプレゼントをあげたときに、相手からのお返しを期待してはいけないと言っているのではありません。期待したっていいのです。期待してもいいけど、お返しがなくてへこんで嘆いても、最後は了解できるぐらいでなくちゃいけない。
だってあなたのそのプレゼントは、あなたの最大限の自己満足で送った思いやりなのですから。