みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

目立ちたがり屋と寂しがり屋の違い

目立ちたがり屋(喝采願望)の人と寂しがり屋の人って似てるんだよねぇ。どっちも他人から気にかけてほしいって思ってるところが。

目立ちたがり屋(喝采願望)ってのは、その根底に相手から尊敬されたいって気持ちが強くて、他人から尊敬されて慕われてちやほやされることで「私は大切にされてるんだ」「私は必要とされてるんだ」って安心する。常に不特定多数の誰かに見られていたいし、そうでないと心の安静を保てなかったりする。目立ちたがり屋にとって他人とは、自己を喝采し肯定してくれる相手であって、仲間というのは一方的に喝采してくれるか互いに喝采・肯定し合える協力者になる。

寂しいがり屋ってのは、その根底に相手から嫌われたくないってのがあって、特定少数(必ず少ないのではなく多くなくて良いという意味)の他人から大切にされることを望んでいる。他者から好意や興味を示されることで「私は必要とされてるんだ」って安心するし、誰もまわりにいないと寂しくて生活できなくなるかも知れない。寂しがり屋にとって他人とは、自己を認め気にかけてくれる相手であって、仲間というのは自己を嫌わない(裏切らない)人たちになる。

どちらのタイプも根底では他者との触れ会いを求めているのに、その他者に対する捉え方がずいぶんと違う。目立ちたがり屋の他者への願望を「直接的なプラス」欲求とすれば、寂しがり屋の他者に対する願望は「マイナスをしない」という欲求になる。


そんな似たもの同士なのに、目立ちたがり屋と寂しがり屋の相性はたぶんとっても悪い。

なぜなら、目立ちたがり屋は喝采願望という上辺の行為を比較的重視することに対し、寂しがり屋は心の根底における信頼を重視する傾向がある。目立ちたがり屋同士はワイワイ楽しくできる仲間を形成するし、寂しがり屋同士は信頼に基づいた関係を作るのでがっちり通じ合ってるように見えるときもあるし、第三者からすると「なんで仲良しなのか分からない」なんてこともよくある。

目立ちたがり屋と寂しがり屋は気にかけてほしいもの同士うまく行きそうにも思えるし、実際最初のうちはうまく行くことが多い。でも距離を縮めようとしたときに、目立ちたがり屋の人は分かりやすい喝采(ちやほや)があまりもらえないことに不満を持つし、寂しがり屋の人は相手が行為しか見ず、その裏の気持ちや本質を見ないことに不満を持つ。まして目立ちたがり屋の人は沢山の取り巻きを欲するので、喝采する人なら自分でなくてもいいんだろうと考える。

なぜ寂しがり屋の人が親しくなると単純な喝采を控えるかと言うと、その上辺だけの行為自体が親しい相手に失礼ではないかと考えるからで、決して興味を失っているわけじゃない。別に、目立ちたがり屋の人だって寂しがり屋の人を軽視しているわけじゃない。ただ「気にかける」って行為に対する捉え方の違いで、例えばこの人は○○のときに話せる人、○○のときに一緒に××できる人って思ってる。目立ちたがり屋にとって相手を大切にするというのは相応なときに一緒に仲良くできるってことなんだけど、寂しがり屋の人はそれを大切にされていないと感じてしまう。寂しがり屋の人は、自己のための言動や行為を信頼の証として大切に受け取る。


うまく説明出来てないかもしれないけど、目立ちたがり屋と寂しがり屋が親しくするときは、目立ちたがり屋の人は寂しがり屋の人に「仲間」としてではなくてたまには「個人」として向き合ってサービスしてあげることが必要だし、寂しがり屋の人は目立ちたがり屋の人に対して定期的に喝采したり仲間として付き合ってあげることが必要。それができないなら、そもそも関わらない方がお互いにとって幸せなんじゃないかと思う。