みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

穴から拾い上げることは救いじゃない

なにを言ってもぬかに釘、のれんに腕押しでまったく響かない人が居る。

何か言われる度にへこんでいると世の中生きていくのは大変なので、これはこれで処世術のひとつだし、人間はある程度慣れとしてそういう感覚を持っている。だけども、それが災いして、何に対しても真剣になれない人がいる。

こうなってしまうと、本当に追い詰められない限り本気を出せなかったりする。

だから追いつめられるってのは別に全部が全部悪いことじゃないんだよね。そう思うから、悩んで困っている人が身近に居ても放置することがある。すると「なぜ慰めてくれないんだ」と反感を買うこともある。そりゃ、もう咽から手がでるぐらい「ああして、こうして」と言いたいし慰めたい。

でもさ、ここで慰めてしまうと一時的に回復するけど確実にまた同じ穴に落ちる。それじゃあ意味がない。

穴から拾い上げることは救いじゃない。次に穴に落ちないようにするのが本当の救いってやつだ。

自傷行為で満足しない

まわりから心配され必要とされていることを確認するために「自分を傷つける」のを定期的に繰り返す人をみてると、みっともないなあと思う。

たまにならいいよ、たまになら。

でもさ。年がら年中そんなことを言ってる人が居るんだけど、そりゃ「そんなこと言ってるから嫌われるんだ」と言いたい。

自分は誰からも必要とされてないんだと嘆くことで、自分は「恵まれない不幸な人間なんです」って満足してるだけ。別になにか学んでるわけじゃない。

「綺麗に使って頂き…」に見る通販番組のロジック

結構有名な話なので知ってる人も多いと思いますが、一昔前はよく「一歩前に進んでください」とか「汚さないでください」って書いてありました。でも最近は「綺麗に使っていただきありがとうございます」って書いてある。

どうしてこう変わったのか。人は「○○してください」って言われると拒否をしてしまうからです。親しい友人ならともかく、どこの誰ともわからないものにそう言われても拒否するでしょう。だからお願いせず、しかも感謝の言葉を書いてあります。これは簡単に拒否されないためのトリックです。

例えばTVのCMで「この商品を買ってください」と言っているのを見たことがありますか? 通販番組で「買ってください」と言っているのを見たことがありますか。普通間違ってもそんなものは作りません。「買ってください」→「嫌です」と拒否されるからです。

実際にCMはどうなっているか。特に優れていて有名なのがジャパネットたかたです。たかたの商品紹介には特徴があって、ほぼ必ず実際にどのような状況で使用するか具体的に訴えています。

  • カメラのズーム機能は「運動会でのお子様の撮影」
  • 夜撮影に強いデジタルカメラは「猫や小さいお子さんの撮影」
  • エアコン/空気清浄機は「花粉症対策」

人は商品そのものやその特徴にお金を払うのではなくて、それを使用することによって得られる幸福感を求めてお金を払います。ジャパネットたかたの販売員や社長はそこを非常によく心得ている。


この話が「お願いしない」というキーワードとどう繋がるのか。それはどちらも無意識に働きかけているということです。無意識というのは日頃私たちが思考している「意識」の奥に潜む基礎的な感情みたいな部分で、無意識という核を(表層)意識が覆っています。

私たちは普段「意識」で思考することで行動を決定していると勘違いしていますが、人の行動を絶対的に支配しているのは無意識の方です。「意識」は「無意識の指図」で動いているにすぎません。つまり、相手に何かをしてもらおうと思ったら無意識に積極的に働きかけなきゃいけない。そんな無意識ですが、その原始性故に実はとても傷つきやすく他から影響されやすいという特徴があります。だから意識が無意識を守るように覆っているわけです。

なぜお願いすることが効果的でないかのか。「お願い」というロジックは表層意識に拒否されて無意識まで届かないからです。「綺麗に使っていただきありがとうございます」だと、どこにも指示が含まれないので(多くの人で)表層意識を通過して無意識に届きます。だから効果がある。この言葉が「プレッシャーに感じてしまう」という意見がありますが、これこそ自然と無意識に働きかけた証拠です。

ジャパネットたかたの手法が優れているのは、商品を使用している状態を徹底的にそして視覚的に訴えていることです。このときのイメージや想像というのは無意識が行うことなので、そこに幸福が感じられれば購買意欲を誘います。

こんな感じで世の中の広告や情報メディアを「表層意識をいかに掻い潜り無意識に訴えかけるか」という視点で見ると他にも色々と面白いことが見つかります。



そういえばさっき選挙カーが「よろしくお願いします」って通ったけど、あれは「お聞きいただきありがとうございます」ぐらいにしたらいいんじゃないだろうか?

ちゃんと自分を見てもらえない寂しさ

誰だって誰かに嫌われたくないし、好きな人には同じように好きでいて欲しい。好きな人にはちゃんと自分のことを見ていてほしい。でもそれはなかなか難しい。結構な人が「ちゃんと自分を見てもらえない」って寂しさを抱えてる。

好かれるように相手に同調する、相手の言うことを全部肯定する。そういうのはコミュニケーションを円滑に進めるために必要。でも、それだけじゃいつまでたっても寂しいままだ。

その寂しさを埋めるためには、やっぱり先に自分自身がちゃんと相手をみないといけない。相手の上辺の行動じゃなくて、何を考えて、どう思って、何を感じているか見るように気を付けるといい。相手の態度や言動を短絡的に捉えないで、その裏側の気持ちを考える。

そういうことをすると結果的に相手が自分のどこを見てるか分かり、相手に対して過剰に合わせる必要はなくなるし、自分を飾らないで自然に振舞うことができる。この自然に振舞うというのが大切。

嫌われるのを恐れるあまり上辺的な部分を出し過ぎると、その上辺的な部分に惹かれた人たちが集まってきてしまう。本当は、はじめから飾らなければ素の状態に好意を持つ人しか集まらない。でもそれでは人間関係が成り立たないから多少の潤滑は必要。

相手をちゃんと見たら、相手が自分を尊重してくれた分だけ、相手の気持もちゃんと尊重してあげること。これをしないとただの依存になっちゃうし、依存している限りいつまでたっても寂しさは解消されない。


心に寂しさがある人は、よく何でも優しかったり何でも自分のいうとおりにしてくれる相手にハマってしまう。けど、そういう人が本当にやさしいことは稀で相応の見返りを得ようとしているだけ。

やさしくすることは簡単だけどそれじゃ本人のためにならないなら厳しく接することもある。これが本当に優しさってやつだ。

これがお互いにできれば、相当に成熟した関係なるんじゃないかな。

それは不幸ではなく現状維持を選んでるだけ

知人のお話。

家庭内暴力(DV)に耐えかねて家出しています。子供がいるそうで、色々と大変なようです。住所知られるわけにはいかないとか、籍入ったままなので役所的には一家とみなされるとかで、できれば離婚したいらしい。

大変なんだったら、調停でも裁判でもどんどん動けばいいじゃん言ってるんだけども。

「お金がかかるから・・・」
「今は時間がないから・・・」

こんな具合で次々と言い訳を出してくる。*1

なんだか聞いてるうちにイラっと来てしまった。単に動きたくないだけじゃん。

「現状に甘んじるんなら、大変なんです不幸なんですとか言うな!!」

程度の差はあるだろうけど、自分自身の置かれてる状況に100%満足してる人なんて誰一人居ないんだよ。それでもみんな必死こいて生きてるわけだ。

その境遇をグチるなとは言わない。でも、本気でその境遇の悪さのせいにして、だらだらと生きている人間は見てて悲しくなってくる。そんなことをしたって何の得にもならないことは火を見るより明らかだ。

拉致監禁されてたり、交通事故で入院して身動き取れない、調停や裁判という解決策を知らないなら話は別だ。でも、そうじゃないならいつでも行動を起こすことはできる。現状を打破することはできる。


現状という環境と解決策を天秤にかけて、解決の道に進まないのは構わない。構わないけど、それは自分で選択したってことをよく自覚した方がいい。

「色々いやだけど、私は現状維持を選んでます」

胸を張ってそう言えないなら、とっとと別の道を選ぶべきだ。

どうしてその道を選べないかをよく考えれば、自分が何に対して未練を持っているのか、自分自信が何を大切にしているかよく分かる。それに気付いたらもう一度考えてみればいい。現状維持がいいのか悪いのかを。

そうしなければ絶対後悔する。あとで後悔したって時間は絶対取り戻せない。

*1:離婚裁判に必要な費用は印紙代13000円と何千円かの切手代だけです。

夢は変わるもの、後悔しないために

例えば何かのきっかけで急に海外に行きたくなって、学生時代にもっと英語を勉強しておけばなーとか思う。

夢ややりたいことってほんと見つけにくいし、歳とともに変化もするから予めこの道って決めて一直線に進める人って少ないんじゃないかと思う。紆余曲折を経て、ようやく辿り着いたた「今」やりたいことってのがあるでしょ?

「あのときこうしておけばなー」

そんなこと言っててもさ、過去は少しも変えることはできない。だけども、未来に後悔しないように努力することはできるんだよね。

やりたいことをみつけた時点で後悔しないようにがんばる

言葉にすれば簡単なんだけど実践するのはほんと難しい。それが本当にできるようになったのは最近のことだもんなあ。

やりたいことがないって人は常にアンテナを光らせておけばいつかみつかります。やりたいことがたくさんって人は、それを全部紙に書いて順序を付ければいい。


やりたいことがあるのに、あれこれ理由付けて気付かないフリして逃げ回るのはみっともない。別にやりたいことから逃げてもいいけど、それは「今選択したことは後悔しない」って思えるときだけだよ。*1

*1:いくつかやりたいことがあって、その中のいくつかは現実的に諦めなくちゃいけなくって、ここで慎重な選択をしたってやっぱり多少の後悔は未来にしちゃうんだろうけど、それでも「その時の最善を選択した」って後から思えれば、すごく価値のあることなんだと思う。

「誰かを傷つけたくない」は本心じゃないでょ?

以前はあまり縁がなかった「誰かを傷つけるのがこわい」って人に最近会うようになりました。

私自身もそんなところがありました。

「他人が大切だから誰かを傷つけたくない」
「友人を傷つけたくない」
「まわりに居る人を誰も傷つけたたくない」

こんな風に本気で思ってましたよ。でもそれは欺瞞だった。

純粋に誰かを傷つけたくないんじゃない。誰かを傷つけることで自分が傷つくことが嫌いなだけ。他人を傷つけることで自分が嫌われるのが耐えられないだけ。その誰かを本当に愛しているわけじゃない。

別にところ構わず傷つけていいって言ってるんじゃないですよ。「まわりの人を傷つけたくない」って言っている人は多くの場合過剰防衛*1なんです。自分と相手の距離を測ることをやめ、相手がどういう思考をしているかを無視し、自分自身の価値観においてのみ相手が傷ついたかどうかを判断しているだけ。

「傷つけたくない」って言っている人の多くは、相手の気持ちなんて微塵も察していないのです。

だから面白いことにある共通した行動を取ります。それはオウム返しのような形式的な共感の言葉です。ミスをした人は慰める、何かもらったと言えば「よかったですね」と言う。そういう形式的な「褒め」や「慰め」を多用します。それ自体は悪いことではないのですが、人の感情は色々ですから「プレゼントをもらった」からといって悲しいときだってあります。そんなときに「よかったね」といわれてもいい気分はしませんが、そういう微妙なところを汲むことができません。


傷ついたかどうかというのは相手の価値観でしかありません。そこにはどっちが良いも悪いもなく、単純に相手が傷ついたかどうかという事実だけなのです。あなたが例え相手のことを褒めたとしても、それで相手は傷つくことがあるのです。相手が傷ついてないと言っても本当に傷ついていることもあるし、傷ついていると言っても、傷ついた態度をとっても傷ついてないことすらあるのです。

観察しかないのです。相手が発したその言葉は、本当はどんな気持ちから出てきたものだろうか。そういうところから地道に考えていきます。よく分からないなら自分に置き換えます。そうやって地道に努力を重ねるしかない。それでも傷ついたかどうか本当のところはわからないのです。


繰り返しになりますが、結局、誰かを傷つけたくないというのは本心ではなく、自己満足な「自分が傷つきたくない」の置き換えでしかない。

それをわかった上でも、あなたのまわりに居る人を傷つけたくないと思いますか?

その誰かを本当に愛しているなら、例え相手を傷つけたとしても言わねばならない言葉ってものもあるのですよ。



*1:その他のケースとしてその人自身の経験から、誰かを傷つけることがトラウマのようになってしまっていることがあります。これはまた別の理屈になりますが、結果としての行動は価値的にも同じです。