みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

アニメ感想 神のみぞ知るセカイ(第1期)は明らかに演出の失敗

原作を読んだことがあり、アニメ化という時点で嫌な予感しかしなかったんですが、アニメをみてやっぱり「これはひどい」という感想。予想通りの期待外れ。

がんばって作ってるのは分かるし、アニメだけ取り出せば面白いのかしれないけど、原作の面白さがそこに出ているかというと甚だ疑問。

漫画「神のみぞ知る世界」の面白さってのは、そんなゲームの中みたいな出来事が現実に起こったらギャグだよという大前提があって、その上で「あたかもゲームにありがちなエピソードが(物語上の)現実として起こることの面白さ」にあるのです。

アニメ版の演出は、リアル(現実)をアニメ中の空想世界として描いていてリアリズムをはなから排除している。演出の方向性が180度間違っている。「神のみぞ知るセカイ」は、バーチャルであるゲーム世界に対してリアルである現実の対比を際だたせ、現実でゲームのようなことが起こる面白さがその核であるのに、リアルと言っているのは桂馬の台詞だけで画面はちっともリアルじゃない。第一あのオープニング。どこをどうみてもリアリズムを演出しようという欠片も感じられない。

リアリズムが無視されてるから、お金もちお嬢様は「よくあるお金持ち設定」にしか見えないし、アイドル少女の中川かのんも「アイドル設定の人物」にしか見えない。だから「そんな金持ち現実に居るかよ!」という驚きもないし、「アイドルなのに相手にしない桂馬」という面白さも生まれない。

その中川かのんの回は特に酷くて、EDまで歌をとっておいて、即エンドロールでそのまま終わればいいのに、1コーラス以上も永遠歌シーンで引っ張る。もう頭おかしいんじゃないかと。無理矢理歌なんて聞かせなくても、話の内容がすばらしければ歌は売れるのにそれが分かってないんじゃないだろうかとすら思えてしまう。


ラブひなという漫画があって、それはエロゲのようなエピソードをそのまま漫画にしたことが画期的でした。まるでゲームのような漫画だったわけ。そのアニメにリアリズムは求められなかった。それに対して神のみぞ知るセカイは、当時のハーレムから時代が進みシナリオ重視となったエロゲが背景にある。でも単に一人一人のヒロインを攻略する物語ならゲームをそのままアニメ化すればいいだけの話神のみぞ知るセカイをアニメ化する必要はない。神のみぞ知るセカイ神のみぞ知るセカイたる所以は「ゲームのような少女が実在したら」というところにあるわけ。だからリアルがリアルとして演出されないと成り立たない。


そりゃたしかに、観ていてアニメでリアルを演出することの難しさを感じたりはしましたが、挑戦もせずに最初から普通の何の変哲もない学園アニメとして演出した判断は、原作に愛着がないか、原作の面白さがよく分かってない人間の犯行だろうと思わずには居られませんでした。

第2期やるそうですが、改善は期待できないだろうなあ・・・。

嫌いになるだけ損するような

そりゃ人間だから好き嫌いはあるだろうけど、誰かを心底嫌いになっても自分が辛いだけ損なんじゃないのかなあ。

気持ちの問題だから難しいところはあるのは承知してるけど、もし嫌いにならず、興味持たないとか関わらないとか関係ない人とか、かわいそうな人でもいいけど、別の形に変えられるならその方が楽な気がする。

見るたび、会うたび、考えるたびに嫌になるわけでしょう。だって嫌いになれば嫌いになっただけその気持が強くなるわけでしょう。それって明らかに損してない。

別に好きになれとは言わないけど、あの人にはあの人なりの考えがあって考え方が違うんだなでいいんじゃないかと。その考え方は相容れないけどって、よくそんな風に考えます。


嫌いになった人を違う形に変えるのは難しいのは事実でも、嫌い度20を、わざわざ25や30に増やす必要性はない気がします。それに、20を19にするならそこまで難しくない気がするんだ。

・・・理想論だけどねwww

差別しないとは区別しないということ

メンヘラって単語は好きじゃないど、通称語としてメンヘラってのはある程度一般的になってる。自ら名乗ってる人もいるし。似たようなものでお薬やってますって言ってる人も居る。

こういう人と出会ったとき、交流するとき何か気をつけてたりするんだろうか。うかつに傷つけるようなことを言わないようにしようとか? 衝動的な発言をしてたらなぐさめようとか?

私は考えが甘いなと感じる部分があれば容赦なくツッコむし、考えが偏ってるなと思えばそれを指摘する。

メンヘラの人にそんなことするなんてと言われるかも知れないけど、逆に聞きたい。そんなことで区別する必要あんの?


死にそうな声でグチのような悩み話をされたときだって、さすがに直接の否定こそ避けはしても平然と突っ込む。とりあえず慰めるとかってどうなんだろう。*1

価値観の押しつけと言わればそれまでだけども、「この人は○○な人」なんて区別されてくないし、○○な人だからって風に考えて接されるのなんかみんな嫌だと思う。

「○○な人」なんて区別されて喜ぶのはその状況に甘えて恩恵をうけてる人ぐらいだから


そういえば「○○な人」をフォローしているつもりが、「○○な人」が自分たちとは違う存在だという意識がおもいっきり全面に出てて、それこそ差別丸出しなんてのをまま見かける。結局、そこを区別しないという意識の持ち方が差別しないってことなんじゃないの?

*1:相談する相手がそれしか求めてなかったら、そもそも話を聞くきなんてない。

友情と恋愛と共依存

友情クレクレって言ったて誰も相手にしないよなあ。普段から周囲に対しどのように接しているか、人はそこを見てるんだと思う。多分恋愛も一緒なんだろう。

他人に対して一人前になってほしいと思う反面、本当にそうなったらなったで寂しいって思う人は多そう。

そこで「寂しいから一人前にならないで」と思うと、そこから恐怖の共依存がはじまる。


共依存の何がおそろしいって麻薬と一緒で抜け出せないからだ。

「このままではいけない」という気持ちがありながら、「一緒に居ることによる心地よさ」から抜け出せない。傷の舐め合いから抜け出せない。傷をなめ合っている限りそこに本当の友情や愛情なんてあるわけがない。

人は一人では生きていけないけども「他人と関わる」ことと「他人に寄りかかる」ことは違う。

片方が寄りかかっても、片方が自立していれば破綻するか相手も自立の道を進むかのどちらかしかないけども、両方が寄りかかっていると互いが互いの自立を阻害する。共依存の恐怖はここにある。それでいて共依存独特の傷の舐め合いによる心地よさが麻薬的な喜びとなり断絶の決断を拒む。にも関わらず、共依存という未自立の人間同士が触れあいことによる解決不能な衝突があり心の平和は訪れない。

やるべきことがあるときは、何もしてはいけない

しなくちゃならないことがある。やりたいことがある。でもやる気が起きずにずるずると時間だけが過ぎていく。まるで夏休みの宿題状態の時なんだけども、こんなときの対処策で「あえて何もしない」ってのがある。

本当にやると気力が上昇するまで、まったく何もしないんだ。ゲームとか全然違う好きなことをしてるといい。

本当に一切手を付けずに放置するとやがてプレッシャーに潰されそうになる。ヤバイヤバイと感じるようになる。そうやって気持ちが臨界点を越えたある時、ものすごい勢いと情熱で取り組むことができるようになる。*1

すごく簡単なことなんだけど、1つだけ絶対してはいけないことがある。それは中途半端のノートを開いたり、Wordを起動したり、作文なら1行どころう1文字も手を付けてはいけない。それは「なんだ私頑少しずつ張ってるじゃん」ってガス抜き自己肯定行為でしかないからだ。


原理はすごく簡単で、ように自分持つ責任感に対してトリガーを引くために追い込んでるだけ。やりたいことが大切なことならきちんと達成できる。


ただひとつ難点があって、その臨界点がいつどのようにやってくるか分からない。それどころか、ほんとうに来るのかどうかも分からない。だから、ものすごい不安に苛まれることがある。でもそこで安易に逃げると結局何もできない。

多分〆切に追われる漫画家と同じ気分なんだろうなあ・・・w

*1:もしそうならないなら、あなたのやりたいことってのは所詮その程度のモノってことだ。

行動は嘘つかない

嘘をつく人はたくさん居るけど、行動で嘘をつく人はほとんど居ない。

誕生日おめでとうと言える人は多いけども、本当に誕生日プレゼントを用意する人は少ない。

「今度遊びに行こうね」というのはよくある社交辞令だけども、社交辞令で本当に遊びに行く人は居ない。

だから相手の本心を知りたかったら行動を観察すればいい。

逆に「行動」という絶対指針がある状況でおべんちゃらなんて言うもんじゃない。

「いやーそれ私も興味あったんですよー」

一時はごまかせるけども、それが行動に結び付かなければすぐに嘘だとバレてしまう。

そういうおべんちゃらは逆に相手を傷つけるって分からない人が、困ったことに世の中には一定数居る。


余談だけど、たまーに行動まで交えて嘘を付けるプロの人が居る。ここまで来るともはや嘘かどうかもわからないし、「そこまでやってくれるなら」とすら思えるので気は悪くなかったりするので不思議。

穴から拾い上げることは救いじゃない

なにを言ってもぬかに釘、のれんに腕押しでまったく響かない人が居る。

何か言われる度にへこんでいると世の中生きていくのは大変なので、これはこれで処世術のひとつだし、人間はある程度慣れとしてそういう感覚を持っている。だけども、それが災いして、何に対しても真剣になれない人がいる。

こうなってしまうと、本当に追い詰められない限り本気を出せなかったりする。

だから追いつめられるってのは別に全部が全部悪いことじゃないんだよね。そう思うから、悩んで困っている人が身近に居ても放置することがある。すると「なぜ慰めてくれないんだ」と反感を買うこともある。そりゃ、もう咽から手がでるぐらい「ああして、こうして」と言いたいし慰めたい。

でもさ、ここで慰めてしまうと一時的に回復するけど確実にまた同じ穴に落ちる。それじゃあ意味がない。

穴から拾い上げることは救いじゃない。次に穴に落ちないようにするのが本当の救いってやつだ。