どうしてそんなに優しく気配りができるのか
この人どうしてこんなに気を遣ってるんだろう、どうしてこんなに優しいんだろう。そう思える人に今まで数人会ったことがあります。
私も身の回りの人たちに対して優しくありたいと常々思っていますが、なかなかそこまでなれません。
選ばれる人たちと選ばれない人たち
少し逸れますが「わたしは選ばれない」という絶望と、その対応策という記事を読みました。
記事では就活で選ばれない人の苦悩に対して、恋愛で選ばれなかった経験やフリーランス経験などをもとに気にするなとアドバイスしている、とてもよい記事です。
100回「ノー」を言われたとしても、最後に1回「イエス」って言ってもらえれば、それでいいんです。
インターネットの備忘録
その100回に対する努力に敬服すると同時に最後の1回の「イエス」があると自分で信じられるかどうかが、人によっては大きな問題なんじゃないかと感じました。
選ばれないことに絶望する人
先の記事をよく見ると、このような記述があります。
わたしがラッキーだったのは、女としての自分にはノーを突きつけられたけど、仕事や友人関係ではそれなりに評価というか価値のある人間なんじゃないかなという自信を保てていたことでした。
インターネットの備忘録
なんだっていいのですが、生きてきた中で自分に対して自信を持てる何かがある人はそれだけ生き方に余裕がありますし、負け続けても挑み続ける強さがあります。
では「このような経験が乏しかったら、はたして負け続ける強さを持てるのだろうか」と。
どこかに自分を必要としてくれる会社があるかもしれない、もしかしたら(今受けている)この会社が自分を必要としてくれるかもしれないという希望を持つことは、それを打ち砕かれるリスクを常に背負うということに他なりません。明確な(関連性のある)成功体験がない人には、これはなかなか辛いものです。
もちろん、挑戦しない限り成功することはあり得ないので、結論としては挑戦するより他にありません。
ですが、いくら外野が「大丈夫、絶対必要としてくれる会社はあるから」と言ったところで、その人の心にそれがどれだけ届くかは未知数だと思うのです。
生き方の戦略
就活だけではなく広義に世の中や人間関係と考えれば、選ばれる選ばれない、何もしなくても人が寄ってくる寄ってこないで生き方の戦略が変わるのは必然なんじゃないかなと最近思っています。
選ばれる人たちは人たちで苦労はありますが、その選ばれない人たちは結局のところ存在価値が欲しいって人が多い気がします。
例えばコンテスト入賞を目指してみたり、他の人が誰もやってないことに価値を見出してみたり、難しい試験に挑戦してみたり、人気者になりたくてブログを書いてみたり。最初に書いた、すごい気遣いや優しさもそのひとつなんじゃないかなって思うのです。*1
優しくする行為の中でも、相手の存在価値を認めるというのは「存在価値が認められない辛さ」を知ってるからできる行為なんじゃないのかなって思ったら、ちょっぴり泣けてきてしまいました。
真っ直ぐな優しさ
なんだかんだ言っても、究極「人として好かれている実感」が持てれば人って色んなことに対して大丈夫になるんじゃないかなと。それはきっと何にも勝る存在価値だと思うし、何よりも安心することだと思うのです。真っ直ぐな優しさってのは同時に好意でもあるよなって。
他大勢に何を言われようが、誰か一人仲間が居ればその人はちゃんと生きていけるんじゃないかなと思うのです。
選ばれない人を選ばれない人だと切り捨てるのは簡単です。でも、いつかは誰しもどこかで選ばれない人になるんだから、切り捨てるのではなく優しくすることもまた選択肢の一つなんじゃないのでしょうか。
*1:全部が全部ではなく、そういう人も居るんだろうなって