データベース消費すらできなかった、アニメ「フラクタル」感想
まどマギですっかり無かった事にされてる「監督:山本寛(ヤマカン)、原案:東浩紀」のアニメフラクタルの感想。
まとめサイトにすばらしいまとめがあったのだけど、すごく的をいてる。
- フラクタルシステムが滅亡の危機だと言われていた。
- フラクタルが再起動されると、世界が不幸になるかと思っていたら違った。
- ロストミレニアムはフラクタルシステムからの脱却を目指してるのかと思ったら違った。
- フラクタルが無事再起動されて、世界が平和になった。
それなら最初からフラクタル再起動しておけばよかったんじゃないの?と意味不明な物語構造になっています。ロストミレニアムも結局何のために戦っていたのかよく分からない。
微妙な問題
今は、社会的に「勧善懲悪で悪者やっつけましたそれで良かったね」で終わる時代ではないんですよね。そんなの分かりきった嘘でフィクション。エンターテイメントとしては面白いかもしれないけど、現実との乖離が激しくなってしまう。
だからフラクタルシステムを分かりやすい倒すべき象徴として物語を構成しながら、
フラクタルシステムは本当は敵ではなく社会に必要なものだった
と結論しました。だから物語全体が、構造として明確な敵や目的意識を作らなかった。どんでん返せなくなるから。
しかしそのせいで、いつまでたっても「なんの話かわからない」。見ている方を惹きつける要素がない。つまり、つまらなかった。
何がしたかったのやら
たぶん東浩紀氏のサブカル理論を実践したかったんだと思うのです。
東は著書の「動物化するポストモダン」において、大きな物語である社会的な課題や命題(例えば高度成長期の所得倍増等)が失われ、物語性が必要なくなってあとのオタク文化を次のように考察しています。
単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている(「動物化するポストモダン」P77より引用)
作品やその裏のテーマ性はオタクにとってどうでもよくて、「制服」「猫耳」「メイド服」などの要素を、それ全体の要素の集合(データベース)として消費して楽しんでいると論じています。
ポストモダンの時代には人々は動物化する。(中略)彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや(中略)、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。(「動物化するポストモダン」P135より引用)
これを読んでからフラクタルを想像すると、これはデータベース理論的に構成されたと思えませんか?
- どこかで見たような画面構成*1
- どこかで見たことあるようなキャラクター(多数)
- どこかで見たことあるような物語構成
たぶん気づかないだけで、この手の要素は大量に押し込まれてると思います。
逆に言うとそれしかなかった。
あのEDを本当にしたかったのなら、物語はもっとEDに向かって明確に構成されるべきだったし、たぶん12話じゃ足りない。要するに、他のものを犠牲にして嘘だらけの世界を取り、現状のみせかけの幸福を取るって話なんだから。現状に甘んじようって内容。テーマなんて考えてないだろうけど、テーマ的にも受けるものではない。
データベース消費をするためには、そのための要素以前にまともな物語が必要で、本作にはそれがまるでなかったことを明らかにしたのが本作の役割だったのでしょうか。
そして今や
ヤマカンと東氏で場外乱闘してるので何が何やら。途中のフラクタルシステムが健全な街で芸術家が批評家についてボヤいてたのは、このことが背景にあるようで何がなにやら。
*1:宮崎アニメなのかナディアなのか・・・