みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

「信じられない」から始まるリアル「囚人のジレンマ」

日常生活、ちょっと気に障ることを言われたり、ちょっと傷つくことを言われたりなんてことはよくあります。もしくは嘘つかれてるんじゃないかと思ったり。

「あの人の言っていることが気に入らない。敵意があるんじゃないか?」
「恋人が素っ気ないのは、本当はもう自分のことを好きじゃないからなんじゃないか?」
「なんで、そんなことまで、いちいち注意されなくちゃいけないんだ」

敵対ないしは悪意を向けられたと怒ってしまうようなことも、疑心暗鬼にとりつかれてしまうこともあると思うのです。

どうして信じられない?

どうでもいい人からそんなことをされてもあまり気にしないものです*1。多少なりとも好意のある相手から、疑わしい態度を取られると気にしてしまい疑心暗鬼に陥ってしまう。もしくは少し苦言を呈されただけで、ひどく敵意を感じてしまう。

相手は「善意から注意しているお節介なだけ」かもしれないし「その場のノリで言ってしまっただけで傷つける気はなかった」のかもしれない。そもそも「自意識過剰からくる思い込み」かもしれない。理由はなんであるにせよ、敵意まして悪意であることはかなり少ない

それなのに信じられない。信じてしまうことで自分が傷つくリスクを背負いたくないから信じたくない。

結局、相手より自分が大切で可愛いだけなんです。

信じないことで起こる囚人のジレンマ

囚人のジレンマというのをご存知でしょうか。捕まった人間2人に「もう一方が自白してお前が否認すると刑が重くなるぞ」と言われ、自白することで2人とも損をするのに、もう1人を信用できず自白してしまうというジレンマです。

最初に書いたように、日常で相手を信じられなくなってしまうケースってそれなりに存在します。信じられなかったために、仲良く、もしくはそれなりに交流してきた関係が、どちらかが他方を信用できなくなると崩壊してしまうことが多々あります。

せっかくそれまで交流してきた相手なんだから積み重ねを信じればいいのに、少しも傷つきたくないから信じられない。そのせいで余計に傷つく結果になってしまう。まさに囚人のジレンマです。

信じないことのリスク

信じることで「300万円の壺を買わされる」とか「土地や財産が奪われてしまう」とかなら話は別ですけど、日常で起こる「信じる」「信じない」の問題って、信じて失敗したところで裏切られたなとあとで感じるぐらいで、他に何かリスクがあるわけじゃないんです。

逆に信じないと、関係性が崩壊したり、無用なトラブルが起こったりと多数の問題と火の粉が降りかかり、かなり大きなリスクを背負うことになります。

「信じることにリスクがないなら、信じちゃえばいいじゃん」

実際問題信用できるかどうかはこの際置いておいて、信じないことのリスクと信じることのデメリットを天秤にかけてみれば、ほとんどのケースで答えは明白です。

だいたい自分が信用してないのに相手にだけ「信用してください」なんて、そんな話はどこにもないですよ。

何か人と人の間で問題が起こったとき(起こりそうなとき)って、結局最後は「信じるか」「信じないか」のその一点に終着します。ちょぽけな自尊心(傷つきたくない)だけで信じないという多大なリスクを選択していることに気づいていない人も多い。

信じて信じてやさしさを振りまいていれば、便利なやつだなって利用されちゃうことはあるかもしれないけど、そんなことよりも10倍はいいことが返ってきますから。

*1:傷つかないとは言わない。

未来は勝ち取ろうとする人にのみ自動的に与えられる

「恋人ほしいなー」
「一緒に遊ぶ仲間がほしいなー」

そういうふうに言ってる人多いですよね。私自身、経験があります。でもそれって「ラピュタみたいに空から少女が降ってこないかな」と言っているのと大差ありません。

真剣にその未来を望むのなら、合コンに行くなり、出会いがありそうな場所に出向くなり、仲間なら趣味の人が集まる場所を探してさまようなり、そういう具体的な行動が伴わねばなりません。具体的な行動が伴わない限り、未来は何も変わらないのです。

逆に言うなら具体的行動を取れば相応の成果が出ることはとても多い。

未来を選ばない人たち

私は趣味でコスプレをしていますが、イベントに行くようになるまで何年もかかりました。「敢えて行かないんだぜ」って気取っていた。「行ってもどうせダメ」なんだから行くだけ無駄。ほんと馬鹿みたいな話だけど、どれだけ馬鹿なことをしているかって気づくまでに何年もかかってしまいました。

行き始めて1年ぐらいすると友人ができて仲間ができました。これが「行動したから得られた結果」です。

でも当時の私は未来を選ばない人でした。そんな幸せな状況が降ってこないかなと何年もくすぶっていただけ。失敗することが怖くて、ただ言い訳していただけのとてもつまらない存在でした。プライドが高いだけのクズみたいな存在だったと思います。

未来を与えてはいけない

一度でも未来を選ぶ経験をすると、色んな分野で「未来を選ばない人」をすぐ見つけられるようになります。たまたまそれを補助できる立場にあったとして「しょうがないなあ、これこれしてあげるよ」としてしまうことは果たし良いことなのでしょうか?

実際それは優しさであり情けであると思っていました。しかし、そういう人の多くは「補助を失った瞬間に失敗してしまいます」。未来を選ぶ成熟さを持たないので、その未熟さ故に本当の意味で未来を得ることができないのです。

未来は自分の意志で勝ち取ろうとする人にのみ自動的に与えられるのであって、その摂理に反する行為は救いでも何でもない。

ケースバイケースだとは思いますが、何がなんでも優しくすることだけが良いわけではない。例えば、きちんと意思表明すら出来てない人を大きく補助するのは相手にとっても不幸なんじゃないかなって少し思ってしまったんですよね。

どうしてそんなに優しく気配りができるのか

この人どうしてこんなに気を遣ってるんだろう、どうしてこんなに優しいんだろう。そう思える人に今まで数人会ったことがあります。

私も身の回りの人たちに対して優しくありたいと常々思っていますが、なかなかそこまでなれません。

選ばれる人たちと選ばれない人たち

少し逸れますが「わたしは選ばれない」という絶望と、その対応策という記事を読みました。

記事では就活で選ばれない人の苦悩に対して、恋愛で選ばれなかった経験やフリーランス経験などをもとに気にするなとアドバイスしている、とてもよい記事です。

100回「ノー」を言われたとしても、最後に1回「イエス」って言ってもらえれば、それでいいんです。

インターネットの備忘録

その100回に対する努力に敬服すると同時に最後の1回の「イエス」があると自分で信じられるかどうかが、人によっては大きな問題なんじゃないかと感じました。

選ばれないことに絶望する人

先の記事をよく見ると、このような記述があります。

わたしがラッキーだったのは、女としての自分にはノーを突きつけられたけど、仕事や友人関係ではそれなりに評価というか価値のある人間なんじゃないかなという自信を保てていたことでした。

インターネットの備忘録

なんだっていいのですが、生きてきた中で自分に対して自信を持てる何かがある人はそれだけ生き方に余裕がありますし、負け続けても挑み続ける強さがあります。

では「このような経験が乏しかったら、はたして負け続ける強さを持てるのだろうか」と。


どこかに自分を必要としてくれる会社があるかもしれない、もしかしたら(今受けている)この会社が自分を必要としてくれるかもしれないという希望を持つことは、それを打ち砕かれるリスクを常に背負うということに他なりません。明確な(関連性のある)成功体験がない人には、これはなかなか辛いものです。

もちろん、挑戦しない限り成功することはあり得ないので、結論としては挑戦するより他にありません。

ですが、いくら外野が「大丈夫、絶対必要としてくれる会社はあるから」と言ったところで、その人の心にそれがどれだけ届くかは未知数だと思うのです。

生き方の戦略

就活だけではなく広義に世の中や人間関係と考えれば、選ばれる選ばれない、何もしなくても人が寄ってくる寄ってこないで生き方の戦略が変わるのは必然なんじゃないかなと最近思っています。

選ばれる人たちは人たちで苦労はありますが、その選ばれない人たちは結局のところ存在価値が欲しいって人が多い気がします。

例えばコンテスト入賞を目指してみたり、他の人が誰もやってないことに価値を見出してみたり、難しい試験に挑戦してみたり、人気者になりたくてブログを書いてみたり。最初に書いた、すごい気遣いや優しさもそのひとつなんじゃないかなって思うのです。*1

優しくする行為の中でも、相手の存在価値を認めるというのは「存在価値が認められない辛さ」を知ってるからできる行為なんじゃないのかなって思ったら、ちょっぴり泣けてきてしまいました。

真っ直ぐな優しさ

なんだかんだ言っても、究極「人として好かれている実感」が持てれば人って色んなことに対して大丈夫になるんじゃないかなと。それはきっと何にも勝る存在価値だと思うし、何よりも安心することだと思うのです。真っ直ぐな優しさってのは同時に好意でもあるよなって。

他大勢に何を言われようが、誰か一人仲間が居ればその人はちゃんと生きていけるんじゃないかなと思うのです。

選ばれない人を選ばれない人だと切り捨てるのは簡単です。でも、いつかは誰しもどこかで選ばれない人になるんだから、切り捨てるのではなく優しくすることもまた選択肢の一つなんじゃないのでしょうか。

*1:全部が全部ではなく、そういう人も居るんだろうなって

自分は自分で思っているほど出来た人間ではない

最近思い悩むことが色々ありまして、なんでこんなことになっちゃうのかなとか結構考えてました。

自覚はあるんですが、私の根の性格はたぶんめんどくさいんですよ。

交友のある相手が自分に対してどう思ってるか気になってしょうがない。興味ないんじゃないだろうか、一緒にいても楽しくないんじゃないんだろうか、都合がいいだけの存在だったりしないんだろうかって。

でもさ「私のことどう思ってるの?」って聞くなんて、相手からしたらめんどくさいじゃん。だからそんなことは相手に迷惑だからしてはいけないって思ってた。そして、自己矛盾に陥ってしまう。結果、訳のわからんことをしてしまう。

  • これは言ってはいけない
  • あれは言ってはいけない
  • それも言ってはいけない

ここで思考停止してた。それに気づいた。してはいけないって勝手に思い込んでいるだけで、相手にするなと禁止されたわけでもない。

「自分は自分で思っているほど出来た人間ではない」

たしかに言ってはいけないことは存在はするけども、全部じゃない。じゃあさ、少し恥かいて、時にバカにされるかもしれない覚悟だけすれば別にそれでいいじゃないと。自制しすぎて自滅するなら、そのほうがよっぽどいいんじゃないかなって思うに至りました。

どうして「やりたいこと」が少しも出来ないのか

やりたいことがたくさんある人は多いでしょう。

  • 読書をしたい。
  • 溜まってる用事を片付けたい。
  • あたらしいことを勉強したい。

とかとか。でも、できないんですよね。

「毎日運動したい(ダイエットしたい)」とか「読書したい」とか、誰しもそういうやりたいことができない自分に悩んだことがあると思います。どうしてやりたいことが出来ないんでしょうね。本当は運動をしたいのに「ついついTVを見てしまう」「ついついネットをみてしまう」「ついついゲームをしてしまう」。

心理学系の本を読んでいると、こういう場合すべき方法について記述されています。

  1. 目標がかなった状態を具体的に想像する。
  2. その状態がいかに望ましいものであるか、価値があるものであるかを心に刻む。
  3. そのための道筋としていますべきことを考える。
  4. 1歩ずつ目標へ向かいがんばる

およそこんな感じです。でもそれで本当に持続できるならだれも苦労はしないわけで(苦笑)


だいたい何故努力できないかというと、理由は簡単別にやりたいことじゃないからです。本当はやりたいわけではないことを、やりたいことだと思い込んでるだけに過ぎない。上の話ならついついやってしまう、TVやネットやゲームこそ本当にやりたいことに他なりません。

表層意識(普段あなたが自分自身だと思っている意識)がいっくら「運動をしたい」と思ったところで、潜在意識(深層意識。あなたの本当に基本的な心理)では「運動なんて面倒くさいことよりゲームしたい」って思ってるんです。そこを誤魔化して「どうして運動ができないんだ意志が弱い・・・」とか嘆いてもしょうがない。だって、あなたの本当の意志は「ゲームがしたい」なんですから。

潜在意識ってやつはガキみたいに単純で愚かなんですよ。でもそれがあなたの本質でもあります。そこをみずして「自分は努力ができる立派な大人」なんて思い込んでも、実際とは異なるわけですから「やりたいことができない」という矛盾にぶち当たるだけだったりします。


結局、大人になるってことはこの「ガキみたいな潜在意識」をうまく手なずけて付き合っていく方法をみつけることに他なりません。表層意識で、ガキである潜在意識をコントロールするのです。

じゃあ実際どうやってコントロールするんだよという話になり、そのための1つの方法が上にあげた「心理学系の本」に出てくる方法ではあります。でも、まどろっこしいというか、ややこしいというか・・・、それができる持続力あるなら初めからできてるんじゃないかと思ってしまう。

万能は方法はないのですが、やり方はなくはありません。それには自分自身がどんなことなら頑張れるのか、どんなことを大切だと思っているのか見極める必要があります。例えばゲームが好きって人は、例えば「相手に勝つ」ことが得意好きだったり、「他人と協調して役割を持つ」ことが好きだったり、「うまく行ったときの成功の瞬間」が好きだったり色々な「好き」があります。自分はどのタイプかよく見極めます。

  • 喝采を浴びることが好きなら、毎週2冊の読書を1ヶ月続けてそれを自慢する。
  • 対抗意識が強いなら身近なライバルと(勝手に)張り合うことで努力を続けてみる。
  • 協調することが好きなら、(目的は違うものでも)互いにどこまで努力したか言い合える仲間を作る。
  • 特定の人(アイドルとか)へのあこがれがあるのら、その人がやっていることを真似てみたり対抗してみる。
  • ネタが好きなら、目的の行為自体がネタとなるように絡める。誰もやってないだろう運動(競歩や逆立ち、器械体操とか)をしてみる。

「とてもすごいこと」で無くてよいのです。「ちょっとすごい」ことで充分。目標に対して方向づけをしてあげて、意識の方向が他人との関係にあるならそれを表明する。誰か特定の相手がいなくてもmixitwitterといった、気軽に発信できて反応をもらいやすい場所がたくさんあります。そういうのを活用していけばいい。

  • 自分がすきなことに関連づける
  • 何もしなくても興味を持続することに関連づける
  • 日々無意識のうちに努力していることに関連づける

うまく自分自身をコントロールしていってくださいね。

迷ったら来週死んでも後悔しない方を選べ

週末どこに出かけようか、友達に誘われたけどどうしようか、明日何を食べようか・・・。生きてれば悩むことってのはすごく多い。例えば「週末、一緒にディズニーランドに行こうよ」と誘われたとして。直感でスパっと決められる人には関係ない話なんだけど、悩む人は悩んでしまう。

  • ディズニーランドは結構好き。
  • 友人と一緒に回ったらきっと楽しいだろう。
  • だけど友人は別の友人も誘ってるみたいで誰が来るか分からないから不安だし、
  • 1ヶ月前に行ったばかりだし、
  • 行くとお金かかるし、金額に見合うかどうか・・・。
  • でも仮に断ったら誘ってくれた友人が気を悪くしてしまうのではないか。

こんな感じで。プラス要因とマイナス要因を天秤にかけて「どうしようか」と悩んでしまう。プラス要因かマイナス要因のどっちかしかなければ悩まないので、悩むってことは必ず両方の要因があります。

こんな時は来週死んでも後悔しない方を選べば良いのです。


といっても、あの世に財産は持っていけないとか、捕まっていいとか自暴自棄になれというのではありません。来週事故かなんかで死んでしまうとして、その瞬間に振り返っても後悔のないほうを選べばいいって意味です。

そもそもどうして悩むのかというところから考えてみれば、物事に優先順位を付けられないから悩むのです。重要な事柄と、そうでないどうでもいい事柄が一緒になってしまうから悩むのです。ですがそれも、死を前にするとあっさりと「どうでもいい事柄」を排除することができたりします。

「遊びに行ったらきっと楽しいだろうけど、もしかして楽しくなかったらすごくがっかりする」

その人にとってがっかりしたくないことが重要なのか、できるだけ楽しい思いをすることが重要なのか。

「がっかりする可能性もあるけど、でも楽しくなるかも知れないなら行ってみる」

「楽しくなる可能性もあるけど、万が一にもがっかりしたくないから行かない」

もちろん前者のつもりで行ったらつまらないこともあるだろうし、後者につもりで行かなかったら後日友人の話を聞いて楽しそうだった、行けばよかったと思うこともあります。それは未来のことだからしょうがない。でも、例え予想通りにならなくても最善の選択をしていれば意外と後悔はしないものです。逆に言うと、その時の価値観に基づいて最善の選択をしていないから後で後悔するのです。

その最善の選択を誤らせるのが、当人の意思に関係ない状況だったりします。それは多くの場合「一般的に考えて〜」だったり「常識的には〜」だったり「こんなことをしたら周りから悪く思われないだろうか」だったり「こういう時に行かない私って格好いい」だったりします。*1


大切なのは自分自身が真にしたいことは何であるかであって、それを見極める手段として死に直面したことを想像するのは有用なのです。

*1:それらを価値判断として最重要視する人の場合は違います。どういう価値判断が正しい誤ってるという話ではなく、あくまで個々人が重要視する価値観はなんであるかということです。

きっと何者にもなれない「持たざる者」の承認欲求

二分法じゃないけど、世の中には持つ者と持たざる者ってのがどうしてもある。持つ者がいる一方で、持たざる者もいる。それはしょうがない現実だもの。ここで言う持つ者ってのは例えば次みたいなの。

  • ものすごく頭が良い。
  • 尊敬される特技や技術を持っている(例えばオリンピック選手)
  • 容姿が可愛い、美しい
  • 有名人である

「努力しろよ」っていうのは実際そうなんだけど、じゃあ「努力したらすべての人がオリンピック選手になれるか」というと現実的にそれはあり得ない。みんながみんな持つ者になれるわけではない。

じゃあ、持たざる者はどうしたら幸せになれるんだろうか。持たざる者の心の寂しさはどうしたら埋まるんだろうか。


ここで1つの疑問が出てくる。持つ者と持たざる者の違いってのはどこにあるのか。持ってる者と持たざる者の間の壁を作ってるのは、集合としての「持たざる者たち」に過ぎないんじゃないかと。わかりやすい思考実験。例えばオリンピック選手だけを集めてしまえば、そこでは「オリンピック選手である」というステイタスは何の意味はなくなってしまう。オリンピック選手が羨望されるのは、オリンピック選手でない大勢の人がいるからに他ならない。

つまり「持たざる者たち」が持つ者を過剰に崇め、持たざる者を過剰に軽視するからこそ、そこに明確な違いが出てきてしまう。


よく考えてみれば、「持たざる者」だって世の中のあらゆる事柄について何1つ優れてない人はいないわけ。だったらさ、その何か1つでも2つでも、その持っているところ(いいところ)を見つけて・褒めて・承認すればさ、その人だって自信が持てるし嬉しくなる。幸せになれる。

結局のところ身近な誰かの良いところを見つけ言語化することができない持たざる者たちがさ、自分で自分の首を絞めてるだけなんじゃないかと思うことがあるのですよ。

だから、身近な人の良いところを見つけて褒めようよ、みんなでさ。