みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

迷ったら来週死んでも後悔しない方を選べ

週末どこに出かけようか、友達に誘われたけどどうしようか、明日何を食べようか・・・。生きてれば悩むことってのはすごく多い。例えば「週末、一緒にディズニーランドに行こうよ」と誘われたとして。直感でスパっと決められる人には関係ない話なんだけど、悩む人は悩んでしまう。

  • ディズニーランドは結構好き。
  • 友人と一緒に回ったらきっと楽しいだろう。
  • だけど友人は別の友人も誘ってるみたいで誰が来るか分からないから不安だし、
  • 1ヶ月前に行ったばかりだし、
  • 行くとお金かかるし、金額に見合うかどうか・・・。
  • でも仮に断ったら誘ってくれた友人が気を悪くしてしまうのではないか。

こんな感じで。プラス要因とマイナス要因を天秤にかけて「どうしようか」と悩んでしまう。プラス要因かマイナス要因のどっちかしかなければ悩まないので、悩むってことは必ず両方の要因があります。

こんな時は来週死んでも後悔しない方を選べば良いのです。


といっても、あの世に財産は持っていけないとか、捕まっていいとか自暴自棄になれというのではありません。来週事故かなんかで死んでしまうとして、その瞬間に振り返っても後悔のないほうを選べばいいって意味です。

そもそもどうして悩むのかというところから考えてみれば、物事に優先順位を付けられないから悩むのです。重要な事柄と、そうでないどうでもいい事柄が一緒になってしまうから悩むのです。ですがそれも、死を前にするとあっさりと「どうでもいい事柄」を排除することができたりします。

「遊びに行ったらきっと楽しいだろうけど、もしかして楽しくなかったらすごくがっかりする」

その人にとってがっかりしたくないことが重要なのか、できるだけ楽しい思いをすることが重要なのか。

「がっかりする可能性もあるけど、でも楽しくなるかも知れないなら行ってみる」

「楽しくなる可能性もあるけど、万が一にもがっかりしたくないから行かない」

もちろん前者のつもりで行ったらつまらないこともあるだろうし、後者につもりで行かなかったら後日友人の話を聞いて楽しそうだった、行けばよかったと思うこともあります。それは未来のことだからしょうがない。でも、例え予想通りにならなくても最善の選択をしていれば意外と後悔はしないものです。逆に言うと、その時の価値観に基づいて最善の選択をしていないから後で後悔するのです。

その最善の選択を誤らせるのが、当人の意思に関係ない状況だったりします。それは多くの場合「一般的に考えて〜」だったり「常識的には〜」だったり「こんなことをしたら周りから悪く思われないだろうか」だったり「こういう時に行かない私って格好いい」だったりします。*1


大切なのは自分自身が真にしたいことは何であるかであって、それを見極める手段として死に直面したことを想像するのは有用なのです。

*1:それらを価値判断として最重要視する人の場合は違います。どういう価値判断が正しい誤ってるという話ではなく、あくまで個々人が重要視する価値観はなんであるかということです。

きっと何者にもなれない「持たざる者」の承認欲求

二分法じゃないけど、世の中には持つ者と持たざる者ってのがどうしてもある。持つ者がいる一方で、持たざる者もいる。それはしょうがない現実だもの。ここで言う持つ者ってのは例えば次みたいなの。

  • ものすごく頭が良い。
  • 尊敬される特技や技術を持っている(例えばオリンピック選手)
  • 容姿が可愛い、美しい
  • 有名人である

「努力しろよ」っていうのは実際そうなんだけど、じゃあ「努力したらすべての人がオリンピック選手になれるか」というと現実的にそれはあり得ない。みんながみんな持つ者になれるわけではない。

じゃあ、持たざる者はどうしたら幸せになれるんだろうか。持たざる者の心の寂しさはどうしたら埋まるんだろうか。


ここで1つの疑問が出てくる。持つ者と持たざる者の違いってのはどこにあるのか。持ってる者と持たざる者の間の壁を作ってるのは、集合としての「持たざる者たち」に過ぎないんじゃないかと。わかりやすい思考実験。例えばオリンピック選手だけを集めてしまえば、そこでは「オリンピック選手である」というステイタスは何の意味はなくなってしまう。オリンピック選手が羨望されるのは、オリンピック選手でない大勢の人がいるからに他ならない。

つまり「持たざる者たち」が持つ者を過剰に崇め、持たざる者を過剰に軽視するからこそ、そこに明確な違いが出てきてしまう。


よく考えてみれば、「持たざる者」だって世の中のあらゆる事柄について何1つ優れてない人はいないわけ。だったらさ、その何か1つでも2つでも、その持っているところ(いいところ)を見つけて・褒めて・承認すればさ、その人だって自信が持てるし嬉しくなる。幸せになれる。

結局のところ身近な誰かの良いところを見つけ言語化することができない持たざる者たちがさ、自分で自分の首を絞めてるだけなんじゃないかと思うことがあるのですよ。

だから、身近な人の良いところを見つけて褒めようよ、みんなでさ。

「すべきである」を「こうしたい」より優先させても無駄

相手を大事にしたい。でも意志が弱くて貫けない・・・。

って言葉を聞きまして。

これ大事にしたいじゃなくて、大事にすべきだと思っているだけなんです。だから、いくら思っても実行に移すことができない。

たぶんこの発言をした人は本当は自分を大事にしたいと思ってるんです。でもそれは許されない。今までたくさん相手に世話になっているとか色々理由はあるでしょう。そういう過去〜現在の状況的に「私という人間は相手を大事にするべきである」と考えてるに過ぎない。それを無理矢理「相手を大事にしたい」とすり替えてるから矛盾が生まれる。こんなのは欺瞞です。


潔癖な性格の人にこういう苦悩が多いような気がします。

「私は聖人である」

とまでは言わないにしても、社会的にまともで正しくまっとうな人間だと思い込んでるとこうなる。心の底まで聖人みたいな人間なんてこの世の中に居やしませんよ。そう思い込むことは、自分自身の悪い部分を見て見ぬふりをしているだけで、なんの成長もしません。だって、現状で聖人なんだから、成長する必要はない。


生の感情ってのはね、偽っても無駄なんです。無駄なんだから、まず生の感情を認識するところから始めないと。いろいろな自己防衛本能や自己欺瞞を切り抜けてね。「なんだ、結局寂しかっただけだ」とか「自分が傷つくのが嫌だっただけか」とか、そんな下らない結論に辿り着いて、そこから初めてどう歩むか決めることができる。

本当にまっとうな人間ってのは、自分自身の弱さや醜さをよく知っています。知っているから、まっとうに振る舞う努力ができる。

「世界で一番私が可愛い」

だっていいじゃないですか。

そういうことがわかれば、その中で2番目に相手も大切にしたいって考えることもできる。そのためにどういうことなら出来て、どういうことなら出来ないのかが分かるようになる。


本当にまっとうな人間ってのは、自分自身の弱さや醜さをよく知っています。知っているから、まっとうに振る舞う努力ができるんですよ。

あなたが今、本当にしたいことは何ですか?

嫌いな食べ物が、美味しく食べられるようになったお話

小学生の頃、給食のアーモンドサラダのアーモンドが苦手でしょうがなくって。給食のクラスのルールで、よそられたものを全部食べきれないとおかわりできないルールで、アーモンドサラダは必ずカレーときに出たんですよ。

「カレーはおかわりしたい」

だから必死に食べるんですが、アーモンド食べると戻しそうになるんですよ。苦手な食べ物だった。

小学生の高学年になったあるとき、食べれない苦手な食べ物をなくそうと思って、がんばって食べる心がけをしてたんです。

「この味は別に気持ち悪い味ではない」

って念じながら。ませたガキですねw でも味から喚起される気持ち悪いという感覚を打ち消すように気をつけながら食べました。そしたら数回で普通に食べられるように、それどころか美味しく感じるように。


もともと好き嫌いは少なかったんですが、今ではゲテモノ系以外はだいたい食べられるように。

結局嫌いな食べ物の多くは、気持ち悪い記憶ややな記憶と連結されているだけなので、それをうまいこと切り離せれば克服はできるみたいです。たまたまは私の場合はやりやすかっただけかも知れないけど。

データベース消費すらできなかった、アニメ「フラクタル」感想

まどマギですっかり無かった事にされてる「監督:山本寛(ヤマカン)、原案:東浩紀」のアニメフラクタルの感想。

まとめサイトにすばらしいまとめがあったのだけど、すごく的をいてる。

  • フラクタルシステムが滅亡の危機だと言われていた。
  • フラクタルが再起動されると、世界が不幸になるかと思っていたら違った。
  • ロストミレニアムはフラクタルシステムからの脱却を目指してるのかと思ったら違った。
  • フラクタルが無事再起動されて、世界が平和になった。

それなら最初からフラクタル再起動しておけばよかったんじゃないの?と意味不明な物語構造になっています。ロストミレニアムも結局何のために戦っていたのかよく分からない。

微妙な問題

今は、社会的に「勧善懲悪で悪者やっつけましたそれで良かったね」で終わる時代ではないんですよね。そんなの分かりきった嘘でフィクション。エンターテイメントとしては面白いかもしれないけど、現実との乖離が激しくなってしまう。

だからフラクタルシステムを分かりやすい倒すべき象徴として物語を構成しながら、

フラクタルシステムは本当は敵ではなく社会に必要なものだった

と結論しました。だから物語全体が、構造として明確な敵や目的意識を作らなかった。どんでん返せなくなるから。

しかしそのせいで、いつまでたっても「なんの話かわからない」。見ている方を惹きつける要素がない。つまり、つまらなかった。

何がしたかったのやら

たぶん東浩紀氏のサブカル理論を実践したかったんだと思うのです。

東は著書の「動物化するポストモダン」において、大きな物語である社会的な課題や命題(例えば高度成長期の所得倍増等)が失われ、物語性が必要なくなってあとのオタク文化を次のように考察しています。

単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている(「動物化するポストモダン」P77より引用)

作品やその裏のテーマ性はオタクにとってどうでもよくて、「制服」「猫耳」「メイド服」などの要素を、それ全体の要素の集合(データベース)として消費して楽しんでいると論じています。

ポストモダンの時代には人々は動物化する。(中略)彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや(中略)、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。(「動物化するポストモダン」P135より引用)

これを読んでからフラクタルを想像すると、これはデータベース理論的に構成されたと思えませんか?

  • どこかで見たような画面構成*1
  • どこかで見たことあるようなキャラクター(多数)
  • どこかで見たことあるような物語構成

たぶん気づかないだけで、この手の要素は大量に押し込まれてると思います。

逆に言うとそれしかなかった。

あのEDを本当にしたかったのなら、物語はもっとEDに向かって明確に構成されるべきだったし、たぶん12話じゃ足りない。要するに、他のものを犠牲にして嘘だらけの世界を取り、現状のみせかけの幸福を取るって話なんだから。現状に甘んじようって内容。テーマなんて考えてないだろうけど、テーマ的にも受けるものではない。

データベース消費をするためには、そのための要素以前にまともな物語が必要で、本作にはそれがまるでなかったことを明らかにしたのが本作の役割だったのでしょうか。

そして今や

ヤマカンと東氏で場外乱闘してるので何が何やら。途中のフラクタルシステムが健全な街で芸術家が批評家についてボヤいてたのは、このことが背景にあるようで何がなにやら。

*1:宮崎アニメなのかナディアなのか・・・

まどか☆マギカ考察(3) まどかの願いの本当の意味

まどか☆マギカの最終回を中心になるべく分かりやすく説明してみます。

まどかの心理

まどかは魔法少女に出会い「夢と希望を叶える」魔法少女に憧れますが、魔法少女になるために必要な「命を懸けるほどの願い」を見つけることができません。

9話までの出来事でまどかは悩みます。まず目の前でマミ先輩が亡くなります。まどかは無力でただ見ているしかできませんでした。魔法少女になった親友のさやかが、正しいことをしている(とまどかは思う)のに苦しんでいます。でも、まどかはそんなさやかを救ってあげることができません。本来ならこの時点で、さやかを救うために魔法少女になってもおかしくはなかったのですが、救うことが可能だと知らされた時にほむらの邪魔が入り契約の機会を逃しました。

その後、杏子に言われさやかを元に戻すために必死に呼びかけますが、無駄に終わりました。


まどかの性格は優しさに満ちています。他人のために自己を犠牲にし、いつだって正しくあろうとして頑張って(7話Bパート母親)います。それでありながら、何のとりえもない人間で何の役に立たつこともできない(8話Bパート)と考えるからこそ人の役に立ちたいと必死になっているのです。世界の中で自分自身がとてもちっぽけな存在だと自覚しながら、それを悔しいし寂しい(8話Bパート)と感じています。

一方でとても他人に流されやすく優柔不断な面があります。最初もマミ先輩に「魔法少女の見学」を誘われそのまま付いていきます。QBの言葉に幾度となく流されそうになりながら、ほむらの言葉にまた流されることで魔法少女への契約をしません。「さやかを戻そう」と杏子に誘われたときも、流されただけです。まどか自身がさやかを救うために必死に動いたわけではありません

魔法少女とそれを取り巻く色々な出来事を目撃し、正しいことをしているつもりがすべて空回りした結果、まどかの心に残ったのは無力感でした。

平行世界とは

少し解説しておきます。知ってる人は読み飛ばして。

例えばこれを読んでいるあなたがコメントをするか、コメントをしないか。両方の可能性が現時点ではあります。コメントをしたあとの世界とコメントをしなかった場合の世界、この2つは両立することはありませんが、どちらも存在し得る可能性です。

ほむらが持つ時間遡行という能力は、単純に考えると大きな矛盾があります。

過去に戻って歴史を書き換えたとき時間を遡行した本人が存在しない

存在しないとはいっても、本当に存在しなかったり、性格や状況の変化でそもそも時間を遡行する必要がなくなったり遡行する性格でなくなったり、そもそもできなくなったりと色々なことが起こりえます。

この矛盾への対する解決策は色々あり*1、そのひとつが「すべての可能性(世界)が互いに感知できない見えないだけで存在する」というものです。これを平行世界と言います。時間遡行によってほむらは「まどかが助かる方法を探していた」のですが、それは「まどかが助かる平行世界を探していた」ということになります。*2

11話の出来事

この回はまどかの決意に至るまでのお話です。

  • まどかに強大な魔力があり、まどかの願いなら「宇宙の法則をねじ曲げることが可能で万能の神にだってなれるかも知れない」(8話BパートQB)
  • どんな希望もそれが条理にそぐわないものである限り、歪みを生み出し最悪を生じる。これが裏切りだというなら、そもそも願い事をすることが間違え(8話BパートQB)
  • 地球の歴史とQBたちは深く関わっていて、もしQBたちが居なかったら「裸で洞穴に住んでた」(11話BパートQB)
  • ほむらから、ほむらが時間を巻き戻すことでものすごい回数と時間でほむらに守られていたこと、まどかが強大な魔力を持ったのはほむらのおかげだと知る*3
  • ワルプルギスの夜により、街中に危険がおよびほむら一人では守り切ることができないことを悟る。

まどかは他人を救いたい性格なので、

  • ワルプルギスの夜からほむらや街のみんなを救いたい。
  • 過去や現在、そしての並行世界のすべての魔法少女を救いたい(それはさやかやほむらも含む)

と考えます。そして希望を抱くのが間違えと言われたことが許せないのです。いつだって正しくありたいまどかには、希望を否定されることは存在を否定されることにつながるので絶対に許せないのです。

まどかの願いは何だったのか?

そもそも、QBにより魔法少女が生まれ魔女に育てられる(もしくは魔女に負けて死んでしまう)システムに問題があるので、QBの存在や魔法少女という存在自体を消し去ってしまいたいところです。ですが「もしQBたちが居なかったら裸で洞穴に住んでた」ので、魔法少女の願いによるキセキを無くすわけには行きません。それを無くしてしまうと、街のみんなや家族・友達の存在が消えてしまいます。

そして、まどか自身魔女になりたくはない(10話Bパート)し、他の魔法少女も希望や願いも否定したくない。魔女になるということは「呪い(負の心)に負ける」ことなのでそれを救いたいのです。

「すべての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女を、この手で」

この願いで魔法少女というキセキのシステムを維持したまま、魔女という負の存在を消し去ることができます。すべての宇宙とはすべての平行世界という意味です。

何が起こったのか

マミの台詞にあるとおり「まどかはすべての宇宙と時間で魔女化する呪いを浄化し続ける」ことになります。こんなことは(例えソウルジェム化しても)普通の人間として行うことはできません。まどかの魂は願いそのものになり、気持ちがあらゆる世界や場所に現れ呪いを浄化し続けます。

書き換わったあとの世界では、浄化される瞬間にまどかと浄化される魔法少女は互いに言葉を交わせるようです。「さやかとまどかの対話」はさやかが呪いによって魔女化しようとしたところで、まどかが現れそれを浄化したあとの出来事です。いわゆる「死語の世界」へ向かう道筋で起こった出来事と似たものだと解釈できます。

このさやかのシーンから、魔法少女は浄化される瞬間にまどかに会うことができることが分かります。最終話でまどかがほむらに対して「また会える」と言っているのはこの意味で、ED後シーンはまた会ってところ(ほむらの力が尽きるところ)なのです。

またこのさやかのシーンの直後でほむらがリボンを握り締めまどかの名前を叫びますが、宇宙シーンでのまどかとの別れ際に「わたし迎えにいかなきゃ」と言ってさやかのシーンに移ったことや、ほむらがリボンを持っていることから、改変前の記憶を持ったほむらはこのシーンで改変後の世界に戻ってきたと考えられます。

ちなみにAパートでまどかのソウルジェムが抱えた全宇宙の膨大な呪いを、まどか自身が消し去っているのは「すべての魔法少女にはまどか自身も含まれるので、まどかの願いが叶ったのならばその呪いすらも消し去れる」という理屈です。

どこにでも居てどこにも居ない

魔法少女が浄化しきれない呪いを抱えたとき「希望を求めた因果がこの世に呪いをもたらす前に消え去る」(12話Bパートのマミ)のはまどかの存在があるからです。これが世界のどこであっても起こるので、まどかは何処にでも居るのです。このルールが宇宙にあること=まどかが存在する意味になります。

でも、改変された世界に生きる人々にはまどかの存在を感知することができません。まどかの存在を感知できたとしても(魔法少女が)死ぬときだから生きている人は知ることができない。これがまどかによるものだとしても「これを確かめる手段なんて無い」(12話BパートQB)のです。

まどかの本当の気持ち

願いの台詞に重要なポイントがあります。

「すべての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女を、この手で

「この手で」なのです。「この手で」なければ、まどかの存在が消えることはなかったかも知れません。QBによる願いのキセキはさやかの例ではっきりしているように、当人が何ら関知しなくても願うだけで叶うのです。この手でなければこの願いは叶わなかったのか? 否定はできませんが、そうとも思えません。

まどかは心の底から「人の役に立ち、世界に自分の存在を認めてほしかった」。そう考えると「この手で」と付けた理由が分かります。世界のルールとなり世界そのものとなったまどかは世界に認められたし、魔法少女が消滅する瞬間に立ち会えることで明確に人の役に立っています。

「魔法ってのは徹頭徹尾自分だけの望みを叶えるためのモンなんだよ」(6話杏子)

最後の最後でのまどかの選択は、他人のためではなく自分のためでした。それに加えて夢と希望の存在として魔法少女への憧れもあったのでしょう、きっと。

*1:たとえばドラえもんのタイムマシンでは、平行世界ではなく「未来の世界が書き換わる」という設定を基本に採用しています。映画back to the futureも同様。

*2:ちなみに9話Bパートでほむらに過去に戻って「歴史を書き換えて」と頼みますが、魔女になりたくないとソウルジェムの破壊を頼むことからも平行世界の設定を採用していることが分かります。平行世界ではなく未来が書き換わるなら、ほむらが過去に戻った時点でその世界は存在しなくなるのでソウルジェムを破壊する必要はありません。

*3:これを直接知る描写はありませんが、ほむらに対して「無駄にはしない」と言ってることから知っていることが分かります。

まどか☆マギカ最終回考察 その2

まどか☆マギカ最終回感想 〜もやもやした気持ちの原因は何か?」で結末と人物描写に関連する物語構造の問題を整理したんだけど、補足その他感想。

※よくわからない人はまどか☆マギカ考察(3) まどかはなぜ魔法少女になったのか?を参照


結局、まどかマギカは「可愛い少女たちの魔法少女モノ」であるところのお約束を裏切ることで視聴者を惹きつけた作りでした。

  • 主人公が最終回まで魔法少女にならないという裏切り
  • 主人公達のなかから死亡者が出るという裏切り
  • 魔法少女に導く小動物(キュウべえ)の壮大な騙し

こういった展開の面白さに非常に重点が置かれ、それを前提としてまどかたちのキャラクターが配置され、そのための補助装置としてSF的設定が利用されました。*1

この良い意味で話の裏切りが作品の魅力になっていました。

再度テーマと構造を捉え直す

エンディング後にあった文字。

Don't forget. Always, somewhere, someone is fighting for you.
As long as you remember her, you're not alone.

「忘れないで、いつもどこかで誰かがあなたの為に戦っている。彼女を覚えている限り、あなたは一人じゃない」

格好いい。格好いいけどそれ言うにはやっぱり物語に問題がある

視聴者である「わたし」とここで言う彼女である「まどか」とその願いに縁がない。まどかは「魔法少女の笑顔」を願い、視聴者は魔法少女ではない。このこと自体は単純な言い換えや比喩ではあるものの、視聴者がそれを実感するには離れすぎています。

ほむらの時間遡行能力やQBの「魔法少女から魔女」を狙う理由付けとして出されたSF設定が、あまりに物語世界の日常とはかけ離れすぎていて、まどかが宇宙や世界を背負い込んだ実感や必然性が出てこなかった

エンターテイメントであるのだから

話題になって、こうやって感想を書いたり議論になったりすることが盛り上がっていれば、それで十分だし成立してます。

テーマ性を持ち出して議論してもしょうがないし、こういう結末でも物語の決着はついてまとまってるし毎週の展開は面白かったし見て良かったと思います。

だけどなあ・・・、この人物心情的な不足が極めて勿体無いんだよなあ。脇役ばっかり魅力的で、違うオチならもっと良かったのになあ・・・みたいな。ほむらに感情移入して見てた人はほぼ過不足無く楽しめたと思うのですが、いかがでしょう。

追記

どうやら、一歩引いてまどかを見守る立場で観ると丁度良いよう一貫されていたみたいです。なるほど、それなら納得が行く・・・けどそれってどうなんだw

似たような論調の感想を見つけたのでメモ代わりにリンク。

*1:9話でQBが「エントリピー」や「宇宙」を語ることに大変唐突な印象を受けたのですが、それは最終回への伏線で必要な前振りでした。ちなみにQBの語るSF設定は突込みどころが満載ですが、まどマギはSF作品ではないのでスルー。気になる人は検索。